*108以外*質疑応答【6】
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580 :もぎりの名無しさん:2011/12/24(土) 01:58:28 ID:l/9LOJpc0
自己観察なのですが、自己観察さんはエゴを見ている意識を意識するのが重要と書かれていますが、「エゴを見ている意識」というのがよくわかりません。思考、感情等のエゴは認識出来るのですが。
意図、選択が重要というのはよくわかったのですが、無意識下に自分が意図するものと反対の信念があった場合、意図と無意識下の信念はどちらに優位性があるのでしょうか?
意図をずっと取り下げなくても無意識下にそれを邪魔する信念があると、それを解放しない限り意図の現実化は難しいのでしょうか?
よく達人さんが自分への問いかけの重要性を書かれていますが、自分に問いかけても何にも答えが返ってこない人はどのようにすれば答えが返ってくるようになるのでしょうか?
色々質問して申し訳ないのですが以前からずつと疑問に思っていたので思い切って伺ってみようと思いました。
584 :もぎりの名無しさん:2011/12/24(土) 03:45:47 ID:61l1BAPQ0
318さんが張ってくれた http://ameblo.jp/tatujin447/entry-11112723195.htmlに
>でも願望っていうものは、自分で「今の自分は○○である」という「認定」や「設定をしていないと」出てこれないものなんだよ。
>だから願望が何かあるのならば、「自分は今○○である」という「設定をしている」ということに気付いて、それを「解除していけば良い」んだよ。設定を外すってゆーのはこーゆーこと。
>解除が出来たら「あ、ここはもっとこうなっても良いんじゃん」ってなってきて、「自分に願望が叶う許可」ができるようになる。
これなんだけど今の自分を知り認定するってところまでは感覚的にはわかるんだけど
「解除していけば良い」と軽く言われても、そのやりかたがわからないんですよね
認める=解除という認識でいいんでしょうか どうもしっくりこないです
581~ :318:2011/12/24(土) 02:07:13 ID:dyEnX92w0
ついにきましたね~この質問はいつか来ると思ってました。
主に>>580さんと>>584さんへの解答になりますが、みんな多分ここは引っかかりやすいんじゃないかな?という所を自分なりにまとめてみました。あくまで現時点での僕の考えなので、どう捉えるか、どう受け入れるかは皆さんの自由です。
まず「別の領域」「本当の自分」などについてです。
「エゴを見ている意識」というのは僕も最初さっぱりでした。
で、捉えた今はやっぱり率直な言葉にすると「認識している私を認識」といったような言葉になるのですが、以下のように考えてみれば捉えやすいかもしれません。
例えば、自分が今美術館に居たとします。
で、絵画の前に立ち、ピカソの絵を見ているとします。この時、ピカソをどう捉えているかです。
「あ、ピカソだ」←エゴに気付いている状態
「私今ピカソを見ているな」←エゴに気付いている自分を認識している状態
言葉にすれば、こういった状態ですかね。
で、多くの方が思ってしまっている事だと思うんですが、「別の領域」とか「本当の自分」って何も特別な場所とか存在ではなくて「自分自身」です。
もちろんこれまで「自分」とおもっていた「エゴ」とは違って、言葉にすると「意識」という事になるのですが、自分がこれまで自分と思っていたものは実はほんの一部で、それも含めて全てを内包している「自分」という事です。
エゴ視点の立ち位置だとどうしても「得体の知れない何か」に感じてしまうと思うんですが(僕もそうでした)何の事はない自分自身です。
なので「何かが見つめている」「完璧な場所が在る」とか思う必要は全くないです。
分からない方は、ただ気付いてない(思い出していない)だけです。
つぎに「観念」と「自分との対話」についてです。
まとめに書いてあった「認めて解放していけば良い」というのは文章そのままの意味です。
言葉を変えて言えば「観念を外す」という事です。
まず>>486にも似たような事を書いていますが、「観念」とは「常識・情報・知識・記憶」の集合体と言えます。
で、その「観念」がどのように出来上がっていくかの説明をします。
子供の頃を思い出して欲しいのですが、例えばあなたが今子供だとして食事中に歌っていたとします。
で、親に「食事中に歌ってはダメ」と怒られたとします。
最初は「ダメ」という概念が無いので、あなたは「何で?」と思います。理解できないのです。
で、分からないので別の時にまた同じ事をします。すると当然また親は怒ります。
これが繰り返されると、自分の中に「食事中に歌ってはダメなんだ」という思いが馴染んでいきます。
で、自分以外に怒られている人を見て「やっぱりそうか」といった認識が繰り返され、長い時間を経て「食事中に歌ってはダメ」という観念が定着します。すると自分の子供や友人にも「食事中に歌ってはダメ」を発信してします。こうやって観念は出来上がっていきます。
次に「自分との対話」の説明です。
観念の生成は、いわゆる「もの心」が出来ていない頃から意識的、無意識的に行われ始めるので、何かを認識した時、その「何か」に対して自分で気付けていない観念がある事もあります。
これを見つける為に、いわゆる自愛や自己観察などの「自分との対話」を行っていきます。自分が受け入れてきたものなので、自分しか答えは知らないわけです。だから「自分に聞け」と言われるのです。
で、自分に問いかけると、自分の中の「観念」を見つけていく事が出来ますが、見つけたという事はその瞬間に「認めた」事になります。
ですが他の観念も邪魔する場合があって「認めたことを認められない」といった事もまま起きてきます。
なのでそう言った場合は「(それをまるごと)許す」ようにすれば、一気に受容できてしまうというわけです。
で、これはちょっと蛇足になるんですが、別に外(いわゆる現実)から答えに気付いても全然良いわけです。
なぜなら世界=自分なので、それも自分からの答えだからです。
自分に問いかけて、外の何かを見ていたり聞いていたりした時に「気付く」のはこういった事です。
なので>>580さんの書いている
>自分に問いかけても何にも答えが返ってこない人はどのようにすれば答えが返ってくるようになるのでしょうか?
という質問の答えは「放っておく事」となります。
「自分の(心)の声」が返事をしなくても「世界という自分」が返事を返してくれるからです。
そもそも願望は「意図した瞬間、既に全て叶っている」のですが、これは普通の認識(いわゆるエゴ視点)ではそうとは言えません。
>>499にも書いていますが、エゴ視点は観念を抱えたまま事象を捉えているので、その観念によって意識的、無意識的問わず100%から観念の分だけ引き算を始めます。
例えば60%の観念がある場合は100-60=40となり、「40%しか実現する気がしないメンタリティ」となります。
で、この観念を外していくと、おのずと観念によって引かれる%が少なくなっていき、最終的に「願望実現100%=達成」となるわけです。
願望成就には2通りあると思いますが、「エゴエゴでも叶う」というのは、「観念のすり替え」で起きます。
「邪魔する観念」を引いて「邪魔しない観念」を足すといったイメージです。
もしくは「邪魔する観念」を無視して「邪魔しない観念」を見る、でも一緒です。
で、いわゆる「認識の変更」を起こした達人達がなぜ「願望入れ食い」になるかと言うと、観念が0になるんです。
全ての存在、想念が「在って良い」状態になるからです。これは言い換えると「何にも無い」と言えます。
そして「全てが自分」なので、観念からの影響を受け付けなくなるんです。というか影響できなくなります。
なので全てを認める事が出来るようになり、その中から自分が「これが良い」と思ったものを選択できる様になります。
で、このいわゆる「達人の視点」に立った方が、観念の入れ替えとか無視とかしなくていいから、願望成就の話が早い、という事です。
だから達人さんたちは皆「叶える為に悟るのではなく、まず悟れ」と言っているんだと思います。
上記を全て踏まえると、>>584さんへの答えはおのずと「認める(許す)→解除→選択し直し」となりますが、僕の答えは「認識変更した方が早いですよ」となります。
さて、個別のお返事に戻ります。
>意図をずっと取り下げなくても無意識下にそれを邪魔する信念があるとそれを解放しない限り意図の現実化は難しいのでしょうか?
「難しい」というか「(叶っていいと)認めにくい」となります。
願望(意図)というのは、「認める」つまり「出来て当たり前」と思うと実現するもんなんです。
それこそ、それが「当たり前」なんです。
で、願望と反りあってしまう信念があると、その信念の方が「叶えたい気持ち」より強い場合、
信念を採用してしまうので、結果「叶わない」という風になります。
あとは連投の中に答え書いてますかね。

