自己観察スレ より
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270 :幸せな名無しさん:2013/10/23(水) 21:01:39 ID:G3NyAIeQ0
感情に気づけたということは、感情とは 「 別の領域 」 に居るということですよね。
居るというか、それ ( 別の領域 ) 自身が自分だってことです。
領域という表現が分かりにくい人もいるかと思いますが、単なる認識・気づきですね。
認識や気づきが自分という存在の正体なんですよ。
なので 「 気づいてること 」 に気づくというのは、自分自身を再認識するということです。
自分の存在性や 「 気づきであること 」 の無限性を再認識するということなんです。
311 :幸せな名無しさん:2013/11/14(木) 21:13:14 ID:A05mOxjo0
メソッドっぽいのを思いついたので書いてみる。
と言っても 「 こうすれば叶う 」 ってものではないのであくまで 「 っぽい 」 だけですが。 ニュートラルに 「 気づいてる意識 」 として在る。
この時の目の前の壁とか空気とか部屋の明かりとか身体の感覚、それらを知覚してる感覚に気づく。 欲しいもの、状況等に意識を向ける。それを知覚してる時の感覚、期待や不安、自分と離れた別の場所にあるように感じるとか、もしかしたらそれとの一体感とか、それらの感覚に気づく。
1と2の感覚がどんな風に違うのか気づく。好ましくない感覚があったとしても、それを消そうとかせずにただニュートラルに気づいている。
何となく知覚が変わったらお仕舞い ( 変わらなくても適当に終える ) 。
「 欲しい!」 となった瞬間、それは自分と分離してしまうんだけど、その分離という錯覚をじっと見つめてみたら何か気づけるのではないか?本当は自分はどこも欠けたところのない満たされた感覚そのものなんではないか?みたいな感じです。
>不足を前提とした思考に何度も気付き続けて居れば自然と認識の変更がされ
認識の変更というのは、今までの 「 私が思考して行動してる 」 という思い込み、思考・行動している私がいないことに気づく、不足の思考は幻だったってことです。
で、実際は幻であるものを 「 私の思考 」 だと思い込んでるから思考に従ってしまうんですよね。
不足の思考に何度も気づくことによって、その不自然さに気づきやすくなると思います。
>世界=自分とか現実は内面の投影とか実感、体感として分かって来るのですか?
そうなると思考で世界を分割して色々貼ってたラベルが幻だと気づくので、全部自分でしかないわけです。
「 内面の投影 」 は間違いではないですけど、それも分離的、部分的な表現になってると思います。全部が自分ということなので。
体感・実感については、他の人の話で観念化しないことです。
私も他の人の体感を読んで自分の感覚とは違うなあと思うし、自分の体感さえ言葉にすると違うような気もします。感じ方・捉え方は人それぞれだし、表現やその受け取り方は更に多様になります。人の感覚表現に囚われると、真実の微細な感覚を逃してしまうこともあると思います。自分の感覚についていけば間違いがないかと。
>そもそも今、五感で体験している世界っていつの内面の投影なんだろ?
んー、私は 「 過去の投影 」 という見かたはピンとこないです。マインドが納得しやすい説明なだけだと思います。つまり辻褄合わせです。なので殊更そこに関して 「 これはいつのだ? 」 となるのは、その過去説の本来の役割から逸脱してます。「 過去の投影が今現れたんだから、別にどうもしなくていいや 」 ぐらいでいいかと。
>「 彼に愛されてて、仕事もお金も叶ってる状態 」 を望んでる私 を離れた感じで見つめてみました。
えとね、「 彼に愛されてて、仕事もお金も叶ってる状態 」 を直接知覚するんでいいと思うよ。
>「 叶ってるし。いや多分そうらしい 」
「 叶ってないと思ってるってことは、ないはあるだからあるんだよな~」 とか
多分この辺が出てくるんだと思うので、その思考でねじ伏せようとしてる時の感覚はどんな感じがするのかを知覚するってことです。ニュートラルな状態と、望むものに対して色々感じてる感覚の違いに気づくことで何か気づけるんじゃないかなーってことです。
「 別の領域 」 と 「 実際の体験 」 が別のものっていう感覚がなくなってくるんだと思います。
まあ恋愛は不安さんが大活躍しますからねえ…
不安は別にあってもいいんですよ っていうか不安が悪いわけじゃないんです。あなたが不安を否定するから、不安も必死になって大声で自己主張するんですよ。
不安はそこにあるだけなら全く何も力を持ちません。あなた自身がそれを恐れることによって、ありもしない力を与えてるんです。不安に限らず全てのことは中立です。それを否定したり変えようとしない限りは。
あと 「 思ったことが実現する 」 っていうのは殆ど信念化してるかもですが、これもかなり部分的な表現・受け取られ方をしてます。実際はあなたや殆どの人が思ってるようなものではないです。
ましてや 「 不安だから不安が実現するかも 」 は、自然に楽な姿勢で歩いていれば前に進むのに、どうしてずっと後ろばっか見てるの?だから疲れたり躓いたりするんだよ みたいなことです。
後ろの景色が悪いわけでも道が悪いわけでも足が悪いわけでもなく、ただ何故前向かないの?っていうだけのこと。周りが見えなくなってる本人にとっては大事な、傍から見れば馬鹿馬鹿しい理由があるかも知れませんが、ニュートラルな視点から見ることが出来れば、馬鹿馬鹿しさに気づけて努力せずともすんなり自然に前を向けるようになります。
それと同じで不安が悪いわけじゃないです。そこばかり見てしまうのは何故?と向き合ってみてはどうでしょうか。ニュートラルな立場で、その理由を見つめてみてはいかがですか?
いずれにしても本来の自然な姿勢に反してるだけです。リラックスして安心することに慣れていくことで、普通に楽に歩けるようになりますよ。
ただ、これもリラックスしようとして却って緊張するならやめることです。
私が 「 気づく 」 ことについて色々書いたのは、私にとっては楽になれることだからです。
方法や知識をあれこれ持ち出してもあなたが楽になれないなら何の意味もありません。
あと>>319の前半も同じようなこと書いてます。
( 319 :幸せな名無しさん:2013/11/15(金) 11:45:30 ID:FSArck9c0
「 対処しなきゃ 」 って思考に同化してるのには気づけていない?
そこに気づいて意識としてあれば対処する必要ないし、それはその度に瞑想することとは違うよ。
気づいてる自覚の明晰性とかの方。
個人としてのものは全部分離だよ。別の領域という言葉は、ここで多用されてる意味では 「 個人の範囲でのエゴとは別の領域 」 かな という気がするけど。エゴは 「 不足を前提とした思考等 」 のことね。
>理想の結婚相手に愛されているという想像をして良い気分になること自体もエゴであって別の領域ではないのですか?
そういう意味ではエゴではなく別の領域かと。 )
宇宙も他人も何もかも全部丸ごと一つのところから生じてるので、個人というのは全体の一部、分離された一部ということですよ。個人のエゴ、個人の別の領域 という考え方の方が分かりやすければそういう受け取りかたでいいかと思います。
>>319の前半、>>329と同じ、嫌だと感じることをどうにかしようとしないことです ( レス使いまわしですみませんw )
基本、気づくだけ、後は何もしません。
「 何かしたい 」 「 どうかしたい 」 は意識ではなく思考ですから、そこに気づくだけです。
とてもシンプルなので 「 物足らない 」 「 これで本当にいいのか不安だ 」 となっても同じく気づくだけです。
308さんの仰るとおりコツが分かると、自己完結するはずです。完結せずに何か訴えてくるなら、それにも同化せず気づくだけなので。
そうはいっても同化してしまうのは、多分思考や感情が意味がないものには見えないからでしょうね。
「 気づいている意識 」 の自覚、認識がまだ浸透してないせいかも知れません。
ここでも積極的に安心を感じられる領域に慣れることだと思います。
>自己観察する際 「 今~と思ったな 」 と思ったことを繰り返して言う方法で観察していますがこれでいいですか?言語に直さず観察するのができないです
これは慣れもあるかと。あとやっぱ自覚の深さ、明晰性が漠然としてるのかもですね。
言語化してしまうことに対する自信のなさとか責める感じとかあれば、そこに気づくだけです。
「 自覚が浅い 」 と言われたから 「 これじゃダメだ 」 「 深くしよう 」 ということではなく、それは別に悪いことではないです。何か言われて反応する、自分で思ったりするそういう心の動きに気づくんです。
判断は要りません。判断するのは思考です。判断するから 「 どうにかする 」 必要が出てくるんです。
判断してしまっても 「 どうにかしよう 」 と思っても、それに気づいてしまえばそれは力を失います。
力を持つべきはあなたです。無意識に思考に力を与えてることに気づくということです。
メソッドぽいやつですが、別に正解はありません。
ただ自分の感覚、気づきをもっと信頼する、精度を上げるって感じです。だって結局自分の感覚だけしか知ることが出来ないんですから。ここでの私の文章よりよっぽど信頼できるものですよ。
私の感覚から言うと、気づいてる自覚の度合いが高いほど現実面でも分かりやすい感じがします。
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自己観察さん(79)
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