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Channel: 潜在意識の達人語録
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Si5wlr9o0さん

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108以外質疑応答【7】


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

356~386 :もぎりの名無しさん:2012/01/29(日) 11:35:22 ID:Si5wlr9o0

常に選択をしているかどうかは本当には分からない。
桑田さんとかが言ってる「チョイスする」をそのまま「私がチョイスできるんだ」ととってしまうと、未だにいわゆるエゴのまま。
そして「なぜチョイスするのか」と聞かれれば "必ず"「今を変えたい」という願望があり、それはやはり「今は不都合」が隠れており、結局「現実ありき」なんだ。

達人たちが言ってることをまるで教科書のように「理解」しようとすると、それはゴールに近づいている気がするが実は違う。元々ゴールにいる。

だが、エゴの領域が本当の自分の居場所なんだ!という勘違いから
「何とかしてこの状況を脱しなければ」「理解しなくては」「悟らなくては」が出てくる。
そしてそのコントロールしなくては!と言ってるのはエゴ。
エゴは何かをしないと気が済まない。
「良いもの」に心を惹かれ「悪いもの」は拒絶する。

だがそれは自分自身ではない。本当の自分は身体も精神も持たない。
「私」は「意識」そのものであり、現実に生きている身体が「私」なのではない。
本当の自分は現実をただ眺めているだけの存在で、全ての基盤。全てを受け入れている。
>>355に書いてある「受け取ってるだけ」がそのままその立場。

で、

>現実は直接的にコントロールできない。直接コントロールなんてできないけど、コントロールしたかった現象を勝手に宇宙が用意してくれるってことなのかな。

って判断はエゴによる判断。
つまりエゴは結果しか見えない。それこそ「"何故か分からないけど"世界は良い方に動く」としか言えない所以。
それを言葉にしようとすると、「宇宙が用意してくれる」とかいう表現にするしかない。
>>355さんなら分かると思うが「理由は分からないんだけど叶う」と言うしかない。
エゴには分かるはずがないから。
でもそこで「この意味不明なパワーを理解しよう」とするのは、エゴ対エゴの不毛な戦い。
「この感覚を理解しないとまた苦しい現実だ!」と。

「悟ろう」としている意識がそのまま「悟っている」意識。
エゴは悟れない。エゴにはコントロールできない。
エゴによる格闘を諦めたその時、全ての存在が「今」だったことが分かる。


私は「願望をチョイス」で「願望を叶える」って思っている人に書いたつもりだから、あなたみたいに「願望」を「ラーメン旨そう」くらいに捉えている人には今更の話だったかも知れない。
多くの人は願望はラーメンどころの話ではない。

が、残念ながら「ラーメン旨そう」もやはりエゴだ。
(108さんを信じるのは良いが、彼が100%正しいわけではない。私は否定もしないが肯定もするつもりはない)
願望はエゴではない、その通り。エゴは「願望を持った」と思っている視点。
誤解があるようだが、エゴは消すべきものではない、てか消えない。

前置きから書く。
本当の自分は判断することはない。
「ラーメン旨そう」と判断し、実際にラーメンを食べ「幸せだ!」と言っているのはエゴ。
だがそのエゴには自由意志はない。
あたかも自由にラーメンをチョイスし、自由にラーメンにありつけた!と思われるが実はそうではない。
そのラーメンを食べた後、過程を思い出すと
腹が減る→美味しそうなラーメンを見かける→お金を確認する→バイクでラーメン屋へ行く→食べる
みたいな過程がある。
結局、「腹が減る」という取っ掛かりに紆余曲折の末「ラーメンを食べる」が引き出されたわけ。
その紆余曲折も複雑なわけだが。
これを読んで「いや、ただ単に美味しそうだから食べたんだよ」も同じこと。
つまりは肉体に生きる限り、エゴによる取っ掛かりに動かされるわけだ。
「チョイスすれば何でも叶う」と言ってる人も肉体一つでは空を自由に飛べない。
それは「人間の体」という制限があるから。
なのに「いや飛べる!チョイスすればね!」と思うところに苦しみが生まれ、それはエゴにとっては自由の選択かも知れないが、思いっきり制限に巻き込まれている選択であり、本物の自由とはかけ離れる。

だがエゴを回避しろとは言っていない。それは不可能だ。
それよりも受け入れるということ。
「楽しそうだな」も「苦しいな」も「トイレ行きたい」も全て受け入れ、自然な行動に身を任せる。
「トイレに行きたい」と思うならそこに行く。心に嘘をついて「便意感じるけど、これはエゴだから行かない」のではない。その行動は自分が「している」のではない。「起こっている」だけ。
「起こっている」のを見ている、経験しているのが本当の自分。

エゴは「何もしない」というより「何もできない」。
それに気づいている視点は、もはやエゴとは無関係な視点。全てを傍観する。


先にも書いたが私たちに自由意志はない。常に何かの刺激によって行動が導き出される。
比喩で言うなら、私たちは上流から下流へと流れる水のごとく流れに身を任せるしかないんだ。
だがここで思い違いをする。水滴一滴が自分自身だと勘違いし(エゴ)、どうしても上流へ戻りたい(願望)という。
ところが水滴一滴には到底叶わない夢。だから「現実は辛い」。
そうして水滴一滴は上流へ戻ることを諦め、流れに身を任せることを決意する(受け入れる)。
全てを受け入れ流されていく内に気づく。
自分も水だったんだ、いや、川の流れそのもの(本当の自分)だったんだと。
上流も中流も下流も、本当は全て自分自身だったんだ。
一歩もそこから外れたことはなかったんだ。
川そのものだったから水滴一滴も存在できたんだ。

私が「受け入れる」で伝えたいことはざっと言えばこういうこと。
全てを受け入れたその時、エゴによる制限が消え本当の自由が見える。


メソッドなり自愛なりは正直まわりくどい。だから「方法が分からない」人がいるのが事実。
第一、あなたが言うような「受け入れることの抵抗」こそ回避するべきではない重要なものだ。
それと向き合うのが目的なんだから、「受け入れやすい」方に避ける必要はない。
結局「受け入れやすい」のはエゴの逃げ道。

「自分がやりたいようにやる」これは正しいようで正しくない。余計な混乱を招くだけだ。
そもそも「やること」はない。
「やること」を推している人が「やること」で辿り着くだろうと思っているゴールは、今ここさえあれば気づけるもの。

まあそれは置いといてメソッドについて書く。
メソッドを「受け入れるために」始めることは、心の奥では「受け入れ」ていない。
自愛で例えれば「愛している」と唱えることで苦しい感情を抑えようとしている。
これは受け入れることとは真逆。「抑えるつもりはない!」
では何のために突然「愛している」と唱えるのか、それは「苦しみを無くすため」「苦しみから脱するため」。
愛していると唱えることへの違和感、猜疑感を味わったことがあるはずだ。やってみた人は分かることと思う。
何故色々とメソッドがあちこちに溢れているのか。
そもそもメソッドは、創始者であるただ一人の人が自分のためだけの自然な流れで出来上がったもの。
「自然な流れ」が肝。
彼は「やった」のではない、"後から気づけば"そのように「やっていた」、だ。
が、人に伝えるとそれはまるで「公式なメソッド」のような扱いをされてしまう。
公式であるから「ルール」ができ、またそれは「自然」ではない。
だから違和感を感じる。

メソッドをやっていて一時的に気分が良くなるかも知れないが、気分が落ち込んでしまうと慌てふためく。
これは多くの人が分かることだろうと思う。
また、メソッドをやったことへの「見返り」を求めてしまう。
これだけやれば達人が言うように効果があるだろう、などと。
メソッドの創始者は「結果→メソッドに気づく」であるのに対し、追従者は「メソッド→結果」だ。
「やらなければならない、やらなければ変わらない」という思考はここから生まれるわけだ。

ただ全て流せば良いのに、わざわざ「流し方」を持ってくる必要はない。止めなければ勝手に流れる。
「苦しい感情」からも逃げない。流れていくのを味わい、見る。それだけ。


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